≪器楽部第二器楽班≫  ■back 
  □数行毎の空白行は、読みやすさのためで、他意はありません。

32 ぶん殴った

中に機材を運び込み、引き戸を閉めてから、多佳子は小声で文乃に訊ねた。
「あの八重樫さんて、つまり、文乃を待ってるのね?」
文乃は無言だ。
眉間のしわが深い。
怒っているような困っているような、下手をすると泣き出しそうな顔をしている。

「文乃?」
季依と仁保子も心配そうだ。
「帰る」
文乃はひとこと言い置いて、部屋を出て行った。
いつも持って帰るベースは、ソフトケースに包まれて隅に立てかけられたままだ。

ガラス越しに、肩を落として歩く文乃の後に、うきうきと従う柚姫が見えた。
残された多佳子と季依、仁保子はあっけに取られて顔を見合わせた。
学校の敷地を囲うフェンスの足元には、ヤナギタンポポが、鮮やかな黄色を見せて、ぎっしりと咲き誇っている。
〈文乃さんの昔からのお友達〉宣言をした柚姫の、笑顔を思わせる色だった。

次の日、文乃は珍しく朝会に来なかった。
多佳子が教室へ行くと、ちゃんと席についている。
「文乃、今朝は準備室に来なかったのね」
声をかけたけれど、生返事で元気がない。
授業中も、どうしたのかと案じていると、二校時が終わったところで、季依が教室の入り口に現れた。

文乃に見つからないような角度から、多佳子を手招きする。
季依は、講堂へ向かう通路まで多佳子を引っ張って行ってから、早口で報告し始めた。
「八重樫さんて、小学校六年生の一学期までこっちにいたんだって。それで、最初、文乃とは違う小学校だったんだけど、バイオリン教室で一緒だったのね。
 二人とも小学校入った頃から習ってたみたい。
 うちのクラスに、それぞれの小学校出身者がいたんで、話を聞き出したのよ」

「情報収集、早いのねー」
半ばあきれながら、後を促す。
「で、両方の話を総合するとだ。
 四年生くらいのときかな、八重樫さん、成績が良いのに世間知らず風なもんだから、だいぶイジられてたみたいで。
 もしかすると、ほとんどイジメだったのかもしれないけど。

 彼女あのとおりだから、気にしないというか、気づかないというか。
 それで、バイオリン教室でも、同じ学校の子たちが、靴を捨てたり、楽譜を破いたりって、だんだんエスカレートして、さすがに彼女も、どうして良いかわからない状態になってたみたい。
 そのうち、彼女がトイレ行ってる隙に、バイオリンの弦を切ろうとした奴がいて、それを文乃が見つけて、その子をぶん殴ったらしいのよ」
「ええー?ぶん殴ったー?」

「いや、その辺はだいぶ尾ひれがついてるみたいなんだけど」
季依はへへ、と舌を出した。
「んでもって彼女、すっかり文乃になついてしまって、突然、文乃が通ってた小学校に転校しちゃったんだって」
「えええーー?そんなことできるの?」

「どうやらイジメ問題をうやむやにするのに、学校側同士が手を結んだんじゃないかって噂もあったみたい。
 それ以来、彼女、金魚の糞みたいに文乃にくっついて歩いて。
 さすがに文乃もうんざりしてたころ、家族でアメリカ行くことになって、文乃は解放されたというわけ」
「それが、戻って来ちゃったわけだ」
きっと文乃、ヘキエキしてるんだろうけど、かと言って本当に突き放すこともできなくて、あんな態度なんだ。

多佳子は〈辟易〉と〈困惑〉の漢字と、その表情をたたえた文乃の顔を思い浮かべた。
休み時間は十分しかないので、昼休みにまた会うことにして、季依と別れる。
バイオリン教室で一緒だった…ということは、八重樫さんもバイオリン弾くんだよね。
多佳子は、ひとつの提案を胸に昼休みを待った。


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